40代の転職漂流記・技術者派遣の現場から

40代の今、数社の転職を重ねて技術者派遣の現場に行き着きました。現在、生き方を模索中

本当は、株をやりたい訳ではないが、セミリタイアに繋げられるなら、何とかしたい

これまでに、数回の転職をしました。中年と呼ばれる年齢になっていますから、珍しいことではないはずです。ただ、1回目の転職は、転職した時点では良いといえる、前向きな転職でした。しかし、その後の転職は、不本意な形での転職です。ジョブホッパーになりかけてしまいました。

今、働いているのは、とりあえずなんて言うとどこからか怒られてしまいそうなのですが、本当にとりあえずという気持ちです。働かないと、生活できないからです。しかし、自分としては、その本音を認めることで、これからの生き方を変えていく原動力にしたいと考えているところです。

これからの生き方を変えていくには、どうするのが良いか。私としては、企業に属する働き方に限界を感じてしまっている、いや、自分がそういうものに合わないのでしょうね。それで、投資というところに行き着きました。別に自分だけの特別な話ではないですね。でも、状況に問題を感じても、不平不満を述べるだけで、具体的な対処は何もせずにただ耐えるという選択は、自分には出来ない。

しかし、株そのものをやりたいわけではなく、むしろ、自分で何かしらの事業を起こすとか、技術力を身に着けて世渡り上手となり、フリーランスでバリバリと働く、なんてことをしたいと思っていました、本当は。けれど、それは思うだけで、自分に向いているかと問われると、残念ながらそうではなかったようです。今でも完全に諦めたわけではないですが、自分の得手・不得手を考えると、どうも不得手なことを無理やりやらないことにはできそうもない、そう思えました。

そうなった時に、自分の本音が自分で見えた気がしました。本音というのは

「合法的でありさえすれば、セミリタイアできるだけの資金を作り込んでしまって、セミリタイアしたい」

というものでした。この本音が見えたところで、投資で資産を作り込むというところにたどり着いたのです。手始めに外貨預金、次にFX、そして株。今は、株です。それも、優待や配当狙いです。

働くことで世間と繋がり、充実感を得たいと思ってこれまで臨んできましたが、私はうまく行かなかったです。なので、本当にやりたいこととは違うが、経済的な自由を手にできて独立できれば生き方は変えられると思い、セミリタイアを目標としました。そのための手段が、投資です。このように目標が決まり、そのために手段を選んだとなれば、投資という手段の是非は別として、ここまでたどり着くまでの道筋としては正しいと思っています。

セミリタイアできるようにして、独立したいと改めて思っています。約3年後の今頃までには実現したいです。贅沢を言わなければ、自分の場合は税引前で300万円の配当があればギリギリ、500万あればまあまあの生活が出来るはずだと見込んでいます。

間違えてしまうことから考えたこと

人は、間違いを犯します。犯します、というよりは、犯してしまいます、と表現したいのが本音です。間違えないようにと力めば力むほど、間違えてしまうのは本当に何なんでしょうか、と思ってしまいます。

精神論に頼らないで対処するとしたら、私は間違えにくい仕組みに変えるのが良いと考えます。複雑な状態になっていたら、簡素化を試みる。新しい技術やサービスを利用することで状況が変えられるのなら、導入してみる。間違いが発生しやすくなる状況というのは、物事が複雑になってしまった結果だと思います。よって、そこに手を入れられれば、状況は良くなるはずです。

ただ、それは個人的なことであれば、自分ひとりの判断で対応できることであっても、企業で、仕事の上でとなると、残念ながら簡単ではありません。それは企業規模の如何に関係なく、簡単なことではないと言えます。

もし、こういう状況を良しと出来ないなら、安定を手放すことになる可能性が高いですが、組織に属さない生き方を考える必要が出てくると思います。組織には属さず、自分自身は一人、でも、それは自分が一人というだけであって、他の人・組織・企業と関わらないということではありません。むしろ、自分は一人となり、その上で他の人・組織・企業と協調していきたい、そう思います。

これだけでは見通しが甘いとしか言いようがなく、それこそ具体性に欠ける話ですが、自分の人生、既に折り返し地点は過ぎたのではないかと思うのです。そう思える時に、一生、こんな風に悶々としたまま生き続けるのは嫌だな、と感じました。

プログラムのあるべき姿を、大衆的な企業で追求しても心が折れるだけだから、本当の目標を目指し直す

仕事でプログラムを書いているのですが、何というか、使用するプログラム言語によって、言語的にはこうした方が良いよな、ということがあります。そうすることで、生産性を上げたり、後で手を加えるにしても、手を入れる余地が残せます。

仕事でプログラムを書いているのですから、要件をちゃんと満たし、納期も守り、そして役に立つ。全部満たしたいものです。同時に、変なプログラムを書きたくないものです。プログラム言語の特性を無視して書き上げてしまったプログラムというのは、そのプログラム言語を正しく理解しようと努める人程、それを見た時に苦しみます。「何でこうなるのか、どうしてこんな書き方になるのか、何故、便利な機能を使わないのか」と、プログラムの書き方そのものばかりに注目してしまって、「どうして、どうして」と問い続けてしまいます。

しかし、そういうプログラムでも、現場で使い物になっていると言われると、何も言えなくなってしまいます。そして、そのプログラムを直すことになった時は、「どうして」という書き方に自分が合わせなければならなくなります。

仕事でプログラムを書くからには、果たすべき目的というものがあります。なので、優先すべきは、簡単に言えば「ちゃんと動くものを作る」ことなのです。動きさえすれば、中身を気にする人はいません。プログラムを書く人間以外は。書き方がきれい、機能をちゃんと活用している、そんなことを訴えても、また、実物のプログラムを見てもらっても、まず伝わりません。

私は、仕事で本格的にプログラムを書くようになって10年以上経ちますが、ようやく、真実に行き当たったような気がしています。プログラムのあるべき姿を、大衆的な企業で追求しても、自分に対しては何の見返りもないどころか、あるべき論に終始してしまって、自分の心が折れるだけだと。

では、どうしたら良いか。当面は心を押し殺して、仕事用のプログラムを書くつもりです。あるべき論や理想を抑圧して。自分は単なる部品だと定義して。しかし、そのような状態では、長くは続かないでしょう。なので、長くは続かないことを前提に自分の進路、本当に目指すべき目標を再度認識し直します。

本当に目指すべき目標は、セミリタイア、自立。これを3年以内に達成すること。もう、何度となく繰り返してきたはずなのですが、何かと言い訳をしていて、その目標へ向かうための具体的な努力は怠っていました。今日、改めてやり直すことを自分に誓います。

不得手なことはしないで済ませられれば、それに越したことはない

人には大抵、得手不得手があります。不得手なことはなるべく避けたい、というのが本音です。不得手なことは、頑張ってもなかなか克服できないからです。無論、単なる甘えでしょうと言われてもおかしくない状況もあることでしょうけれど、それでも、人は得意なことをしていれば、楽にいられるのは確かでしょう。

自分に対してそう思うくらいですから、他人に対してもそうでありたいと私は思います。けれど、やはり、甘えとは紙一重なのでしょうね、きっと。

これだけでは、意図や真意は表しきれていないと思います。多くを語らねば、しかし、多くを語ったところで体系的にまとめられるかどうか。意図や真意を表せるか。難しいなと感じます。

平和に、穏やかに生きたい。

記事を書くこと、書き続けることは難しい

早くも、更新が途切れがちとなっています。記事を読むことと書くことは、大違いなのですね。

探していけば、記事のネタはきっとあると思うのです。しかし、それを読める形にすることは難しい。何の訓練も練習もなしに、簡単にできることでないことは、実際に書き始めてみて感じます。

毎日更新出来る人は、それだけですごいと思います。自分も、訓練して行けば出来るようになるでしょうか。いや、なりたいと思っているのか、まずはそこですよね。こうして書いている内に、方向性が定まったり、見つけられたりしたら良いと思っています。

役割をこなすことについて

それなりに歳を重ねて、何社か渡り歩きますと、新しいところへ行く度に人間関係は再構築することとなります。そうなると、年齢の問題、いや、問題というか、何かチクチクと引っかかります。誰が年上で、誰が年下か。何でこうも気になるのでしょうか。

しかし、冷静に考えると、仕事や職場において果たすべきことは、まず、与えられた役割をこなすことではないでしょうか。与えられたと書くと、何か受け身でしかないような感覚はありますが、でも、実際にはこのとおりです。誰でも、役割が与えられます。

その役割をこなす上で必要なのは、「役割をこなす力を持っているか」に尽きると思います。当人の年齢は、関係ないはずです。役割と年齢が同期する、もしくは同質化された事柄ではないからです。

何故年齢を過度に気にするか、それを分析しても、そんなに役に立つことはないと思っています。それよりも、役割をこなすことを考えて、当面は過ごす。その間に、真の目標を達成するために行動すれば良いと思います。目標は人それぞれですが、自分の場合、セミリタイアと自立が大きな目標です。この目標を達成するためであれば、当分の間は会社員という役割をそつなくこなせば良いと思います。

これでは熱意が足りない?誠意がない?そういうことではないでしょう。するべきことはして、人としての道はもちろん外さない。その姿勢を堅持できれば、問題はないです。

いくら想像しても、経験したことと同じようにはならない

社会に出て、働くようになって、20年強が過ぎています。20年強という時間が過ぎていると書くと、やはり、何も思わずにはいられません。

20年という時間があったら、何が出来たでしょうか。どういったことが形になっていたでしょうか。そうですね、真っ先に思いついたのは、自分にもし、20年前に子供が生まれていたら、その子は成人になっていたということです。自分が働くようになって過ごした20年と、子供がいて、その成長の結果で20年が過ぎていた場合とでは、おそらく重みや感じ方は違っていたのでしょう。

しかし、自分は子供どころか、現実には結婚も出来ていません。だから、「もし子供がいたら」と想像するしかないのですが、想像はあくまで想像であって、経験したことと同じには決してなりません。「経験したつもり」になっても、いざ何かしらの事柄を経験すると、「経験したつもり」が通用しないことを思い知らされるだけです。

それでも、何も想像しないよりはまだ良いと思いたいものです。