40代の転職漂流記・技術者派遣の現場から

40代の今、数社の転職を重ねて技術者派遣の現場に行き着きました。現在、生き方を模索中

集団は合理的に動かないので、個人としての合理性を追求する

人は合理的に動くものであり、大人になれば段々とそうなっていき、世の中は良くなっていくものだと思っていた。漠然とした意識ですが、私にはそう考えている時期がありました。

人というのは、年月を経て成長を重ねれば、程度の差はあっても聡明になっていくものだと思う時期もありましたが、それは勘違いでした。私の考えたことは理想的なことだっただろうとは思いますが、現実はその理想から程遠いものです。それが現実というものなのだと認めるまでには、自分が中年と呼ばれる年代になるのを待たねばなりませんでした。

一人ひとりが合理的で、それがうまくまとまるようであれば、この世で生じている問題はもっと少ないだろうに、と思います。けれど、やっぱりそれは現実ではないわけです。人には感情があり、その感情が合理的と思われる行動を阻害することは間違いありません。

その現実を認識しつつ、どう生きていくのが良いのか。とりあえず、私個人としては、経済的にも精神的にも自立することを目指したいです。残念ながら、全体としての合理性を求めていくことは難しいと判断したので、それならば個人としての合理性を追求して生きていきたいと今は考えています。

考え過ぎて良いことはないから、考えすぎることを止める

考え過ぎだと良く言われます。自分でもそう思います。

何故そうなったのかを考えた方が良いのかも、と書くと、もうおかしいですよね。考え過ぎだとしていることを考える。一体、何がしたいのでしょう?

考えることは必要でも、考え過ぎて良いことはあったか。大してなかったような気がします。だったら、止めた方が良いでしょう。長年の習慣を変えるのは手間でしょうけど、これは負の習慣です。だったら、直したいところです。

実際のところ、「直したい」では弱いです。ここはもう「直しました。ありがとうございます」とします。そう、もう、直したのです。わずかの言い換えで、心持ちは変わるようです。

必要以上に焦るのは、何かの異常?

最近、自分のことが「挙動が変な人」に思えてなりません。

何故そう思うのか。思い付くことを挙げると以下のようになります。

  • 相手が何気なく言ったことを、すっと理解できない。後で振り返れば、理解できなかったことが不思議なくらい
  • 自分の勘違いから不用意な行動を取ってしまい、後で恥ずかしいと感じてしまう
  • 何か余計なことを言ってしまい、やっぱり恥ずかしいと感じる
  • 失敗をしないようにと言い聞かせれば言い聞かせるほど、わかりやすく失敗してしまう
  • 自分で話すことがどこかずれているような、滑っているような、そんなことばかり感じる

以上のことはすべて相手がいる場合に生じていることなので、当然ですが、自分一人でいる時には起こりません。他人と話をしていると、何故かそうなってしまうのです。何故かと考えてみると、そういう時は大抵、自分で自信を持てないことをしている、不得意なことをしているような時に起こっているような気がします。

もっとも、他人は自分が思うほどには、相手のことを気にはしていないといいます。実際、自分でもそうなっています。相手に変なところがあっても、根っからの変人でもない限りは、大して気にしていません。だとすれば、自分も実はそんなに気にされていない・・・、そうであると思いたいです。

けれど、それでも、挙動や受け答えが怪しくなってしまう状態が続くと、「あいつはおかしい」と思われてしまうでしょう。これは、何かの異常なのでしょうか。実はADHD(注意欠如多動性障害)と言われるような状態とか。気になるので、調べてみようと思います。

しかし、自分一人でいる時には、あれこれ考え過ぎとは言え、そんな変な感じはしないのに。それで生きにくいというのはおかしいのかもしれないけど、生きにくいものです、自分にとっては。

得意なことがあれば、そちらを伸ばしていきたい

ITの仕事をする上で、私には、私なりに得意とすることがあります。特定の言語、ツールに10年以上触れてきまして、それでシステムを作り、幾つかの実績を残してきました。

無論、世の中には本当に頭の切れる人がいますから、そういう人達と比較されてしまうと、残念ながら敵いません。それでも、自分として実績を残してきたのは確かなので、これからもITの仕事をするなら、得意とすることを活かしたいのです。

しかし、過去を振り返ったり、周囲を見渡してみると、不得意なことは克服せねばならない、という風潮があるように思えてなりません。どうしてなのでしょうね。得意なことを抑え込ませ、わざわざ不得意なことをさせて、それで良い仕事が出来ますかね。当人に得意なことがあるのなら、それをうまく活かせば良いではないですか。

ある人の不得意なことは、別の誰かが得意だから補ってもらおう。それで良いではないですか。

ITなのに、労働集約的になってしまう

ITは、知識労働ではないのですかね?白々しいことを書きますけど、本当は、知識労働に属する仕事だと思います。しかし、現実には、知識も求められるけれど、時間労働、労働集約的な働き方になることが多々あります。何でなんでしょうね、まったく。

うまくいっている人は良いが、私は、ITの開発からは降りたい

私は、ITで開発系の仕事をしています。得意なのはWeb系ですが、スマートフォン関係のサイトに関わることがなかったため、得意と言っても、今時の要件には対応できないと思います。それでも、得意とするものはあるわけです。

ただ、もうITの開発の仕事からは降りたいと思っています。せっかくITを導入しても、何かを作っても、私が関わった範囲では、それで何かが良くなったようには感じられないからです。ITは、自分だけで使っている分には、役に立っています。でも、それで企業活動をしようとすると、無理や無駄、無茶なことばかりすることになってしまって、それで良いと思えることがなんにもないと感じてしまうのです。

先の所感は、私の関わった範囲での話です。広い範囲で見渡せば、きっと成功事例はあるでしょう。でも、そういう事例に自分が関わっていなければ、自分としてはどうしようもありません。ただし、他人が悪い、環境が悪いと言うつもりもないです。自分がそういう事例に関われるだけの努力をしていなかった、それが理由だと考えています。

ならば、これから努力をし直すのも手です。ITの仕事で一旗揚げたい、だから努力し直す。そうできれば、素晴らしいものです。しかし、道はひとつではないはずです。これからもずっと、ITの仕事に関わり続けなければいけないと、誰かに決められたわけではありません。道は、選べるはずです。

私はもう、ITの開発からは降りたいです。嫌になってしまいました。

歳を重ねるごとに、えぐみが増していく

歳を重ね、経験を積めば、その経験を活かしてより良く生きていける。そうでなければ、経験を積む意味がない。そう思っていました。経験を積めば、楽に生きられる方法を探しやすくなるとも思っていました。

しかし、現実は厳しいものです。歳を重ねるごとに、何とも言えぬ嫌な思いをすることになってしまい、こんなはずではないと思わされます。効率化を目指したり、楽に仕事ができるようにと導入しているはずのITが、実際には複雑さをもたらし、複雑さのために仕事をしているような状態に陥ってしまっています。

何か、歳を重ねて楽になる、より良い生き方にしていけるどころか、えぐいとしか言いようのない思いをすることになり、非常にきついです。何がどういったことでえぐいと思わされたのか、上手に書けないのがもどかしいです。今はただただ、自分の得意なことが何にも活かせず、自分の不得意なことをわざわざ、それだけ選ばれて仕事として回されてきてしまったような感じです。

どうしてこうなるかな、と嘆かずにはいられませんが、他人のせいにしたところで、物事は解決しません。だから、苦しくとも、状況を良くしていくことを考えて、実行していきたいものです。

もっとも、他人のせいにはしないけれど、状況に関わった人とは、問題が解決したところで距離を置きます。自分に不利益をもたらした人とは、一定の距離を置き、関わり合いを避けます。

最終的には、自立です。自分が自立できれば、自分で仕事や働く相手を選べます。働くということにおいての自分の問題は、仕事や働く上での人間関係を自分で選べないことです。なので、自立することを目指します。ただ、それまでに自分の精神を必要以上に病ませないようにしなければなりません。精神を病んでしまったら、出来ることも出来なくなります。

何としても自立したい。孤独になっても、自立したい。