40代の転職漂流記・技術者派遣の現場から

40代の今、数社の転職を重ねて技術者派遣の現場に行き着きました。現在、生き方を模索中

才がないと認めて他を探す、決して悪いことではない

こんばんは。

自分の意志か、成り行きかはともかくとしまして、何かを始めたとします。仕事でも趣味でも、何でも良いです。そうして始めたことが、自分に合うか合わないかは、始めてみた後にわかることだろうと思います。

始めたことが自分に合うと思えるなら、それは大変結構なことです。そのまま継続していき、さらなる高みを目指していけば良いと私は思います。

しかし、自分には合わないと感じてしまうこともあるでしょう。ましてやそれが自分の意志であったり、仕事において自分には選択権がなかった場合は、つらい気持ちになると思います。

私はそのような場合、その事柄については、自分は才がなかったのだと定義することにしています。向き・不向きといったことを大事にしたい私には、そのように考えます。向かない、才がないと思ったら、他を探せば良い。それだけのことのように思います。

自分では、それだけのことと思うのですけれど、軽く考えすぎなのでしょうか。

気力を回復させられないでいることはわかっているのだが

こんばんは。

状況をわかっているはずなのに、認識はしているはずなのに、手を打てないことがあります。気力を回復させられないでいることは認識しているのですけれど、充分な手を打つことができません。どうしてなのでしょうか。

どうしてと問いてみても、すぐには答えは見つけられません。何とも厄介な状況に陥ってしまったものです。

職場の飲み会、私には居場所がないし、意義も見いだせないことを再認識

こんにちは。

久しぶりに日中の投稿となります。

先日、職場で飲み会がありました。私はお酒が飲めないので(すぐに気分が悪くなりますし、そもそも美味しいと思えないです、私には)、気が進みませんでしたが、自分なりに気を使って出席することにしました。入社してまだそんなに時間が経っていないことも勘案しました。

けど、出席しても仕方ないことを再認識させられるだけの結果となりました。皆さん酔っ払っているから、話の内容に意味は大してないですし、どうしてそれで面白がれるのかな、と感じるような場面ばかりでした。酔えれば楽しいのかもしれないけど、私はシラフだし、ただ相槌を打つだけ。

それに、騒がしい中で大声で話をすることが、私にはストレスです。いつ自覚したのかは覚えていないのですが、ガヤガヤしたようなところで大声で話さねばならないような状況が苦手なのです。相手の声が聞き取りにくく、聞き取れないことにストレスを感じるような質ですから、実際に聞き取れないと、もうそれはそれは。悪いけど、イライラします。

そして、こんなことを書くくらいですから、自分から話せるようなことなんて何にもないというか、話したいと思っても話に食いつかれないというか、白けるというか。まあ、無理だと思いますね。でも、どちらが良いのか悪いのかではなく、あくまで志向の違い。

また、言い換えれば「私は相手にされない」のです。飲み会の席になると、何故か話の中心になったり、可愛がられる人っていますよね。これは僻みみたいなものなのでしょうけれど、そういう人と自分を勝手に比べてしまって、話の輪に入っていけない、せいぜい愛想笑い・相槌をする程度のことしかすることがない自分の状況が惨めにしか感じられなくなるのです。

更に、その会は二次会へと続いていったのですが、私は帰ることにしました。そうしたら、誰からも引き止めとかは一言もなかったです。引き止めがなかったことに気がついたのは、このブログを書き始める前だったのですが、いずれにしても、私に居場所はなかったのです。

場所を変えても、相手が変わっても、結局は昔と変わらず。大勢の集まりに、しかもお酒が絡むような席は、私が最も回避すべき状況のようです。だから、今後は最低限の義理を果たすだけに留めることとしました。最低限の義理とは、そうですね、歓送迎会のことになりますかね。それ以外はもう、出ないつもりです。

楽しくやれれば、それに越したことはないはずなのだけれど、こうして考え込む質なのですから、駄目なんでしょうね、きっと。自分だってその他大勢の中のひとりのはずなのに、どうしてこうもずれているのか。けど、もうこれは、こういう自分を受け入れるだけにします。無理なことは無理だと。そもそも、私は状況を変えたいのですよね。セミリタイア・自立を模索しているのだから、その目標に注力しましょう。

求道者か哲学者を目指せば良かったのに

こんばんは。

飲み会が楽しいって、どんな気分なんですかね?

私は、過去には楽しんだことがあったかもしれないけれど、今のことを言うと、間違いなく楽しくない。断言できます。

楽しめればそれに越したことはないけど、どうしたっておもしろくないことはおもしろくないし、酒は飲めないし、タバコも嫌。食べ残しの料理が残ってしまうのも嫌だし。

そして、トドメは話ができないことかな。輪に入っていけないというか、何というか。私は、今で言うところのコミュ障なんでしょうね、きっと。

こういう者は一体、どうやって生きていけば良いのかとまで考えることがありますが、そこまで考えると流石に大げさすぎると気が付き、我に帰れます。

結局のところ、不得意なんでしょう、そういうことが。だったら、もう避けるに限ると私なんかは思います。他に得意なことがあれば、そちらをするほうが良いでしょう。

自分の生き方を見ていて、求道者や哲学者を目指せば良かったのに、と思っています。世捨て人でもいいか。

苦労することを厭わない人からは離れたい

こんばんは。

苦労することを厭わない人、いますよね。面倒なことを面倒なままにしておいたり、複雑なことを複雑なままにしておいたり。

そして、「苦労する=偉い」と本気で考えている節も。技術的なことはいろいろと進化しているのに、楽をしようと思えば楽ができるようになっているのに、そうしようとしない。苦労することが偉いんだと言わんばかりの姿勢で誰とも接する。

当人がそうしたいだけならそれでも良いのですが、そういう人が管理職やリーダーといった立場になると、その傘下にいる人は大変ですよ。「俺も苦労したから、お前も苦労しろ」と、相手に苦労することを迫ってきます。多分、無意識なのでしょうけれど。でも、迷惑です。

どうせ苦労するなら、楽になれそうな技術とか方法論を試して、その結果を受け取りたいものです。そういう苦労なら良いですよ。

意味もなく、「自分が苦労したからお前も苦労しろよ」みたいなことをする人からは、苦労を厭わない・良くないことだと考えない人からは、離れるのが良いです。距離を置きたいです。

もっと言えば、会社から離れたいです。

「ある」ものを活かせず、「ない」ことばかりを責められる

こんばんは。

私が属している派遣元の会社では、やっぱり手持ちの技術を活かすことは考えられておらず、ひたすら「ない」部分の強化をすることを求められます。せっかく「ある」と言えるものがあっても、それでは駄目らしいです。

何か、「ない」ことを責められているだけのような気がしてきまして、良い心持ちになれる要素がありません。管理職個人の方針ではなく、会社としての方針ではあるようだから、一個人に対して思う事はありません。その人達も会社の一員ですから、方針に従っているだけなのでしょう。

無論、全員の「ある」をすべて活かせるとは思っていません。しかし、これほどまでに「ある」と言える部分、当人が得意と表明できる要素を無視されるというか、考慮されないというか、その事実が私には痛みとして感じられます。

多分、私だけが思っていることではないと感じてはいるのですが、派遣元の他の社員とはまだじっくり話す機会がないので、想像の域は出ていません。

仕事探しを他に委ねた結果がこれなんだな、と今は感じています。自分で仕事を探せたり、自立できてさえいれば、こんなことにはきっとならないでしょうから。

己の見通しの甘さを痛感させられています。

もしも正社員として雇われて、あまりにも出来が酷かったらどうなる?

こんばんは。

今の派遣先で、もしも正社員として雇われていて、それでこんな体たらくというか酷い有様を晒してしまったとしたら、一体どうなっていたのでしょうか?

試用期間内であったら、おそらく試用期間終了前に契約終了、でしょうね。そういう時のための試用期間なのでしょうし。

試用期間を過ぎていたとしても、居場所はないだろうし、下手をすれば退職勧告を受けていたりして。

今のところは、私もまだ働けないと困ります。もうしばらくは辛抱と模索が続きそうです。

こちらとしては安売りされても構わないから、忙しくない職場に行きたいのが本音です。