40代の転職漂流記・技術者派遣の現場から

40代の今、数社の転職を重ねて技術者派遣の現場に行き着きました。現在、生き方を模索中

完璧さを求めるのに疲れた、相手に対しても、自分に対しても

いつからなのかははっきりしませんが、相手に完璧さを求めることをしなくなった気がします。

日常生活ですと、レジでのちょっとした間違い(金額は合っている必要があります。そこは間違えられても困ります)、運転中の無理な割り込み(割り込んできそうだと察知したら、こちらがアクセルを若干緩めます)、資料の誤字脱字(直してさえもらえれば、そんなに気にしません。名前を間違われるとムッとはきますけど)など、細かな間違いはそこらかしこであります。

これは仕事の場面でも似たようなもので、相手が間違うことは多々あります。名前の漢字を間違われる、受け取ったメールや資料に誤字脱字がある、開発用の資料に間違いがある、別の人の依頼に対して間違いを起こしていて、謝っている。本当に珍しくないと思います。

そして私自身、もう間違えてばかりです。相手が間違うようなことは、私も間違えます。完璧さを追い求めようとすればするほど、間違える気がしてなりません。開発者としての間違いは、要件を見落として実装してしまう、意図を読み違えるなどがあります。もっとも、これはこれで重大な間違いでして、完璧さを求めるかどうかという話題と同列にしてはいけないのかもしれません。

でも、私は相手に対しても自分に対しても、何事も完璧であることを求めるのに疲れてしまいました。それは多分、自分が完璧さを追い求めても完璧にはなれないと悟ったからです。自分がこんな具合なのに、相手に完璧さを求めるなんておかしいでしょう、そう考えるようになりました。

だから、相手に対して怒っても、割とすぐその感情は静まるようになりました。それに、看過出来ないようなことでしたら、そういう相手とは関わらないようにすれば良いことも学びまして、実際にそうしています。

間違いは直せば良いし、もっと言えば、間違いを起こさないで済むような仕組みに変えていくことが必要なのではないですかね、と私は思います。

ただ、そう考えれば考えるほど、システム開発の仕事からは降りたくなりました。システム開発において必要とされる完璧さを、私は実行できなくなりつつあります。そういう人は、早く別の道を探った方が良いのでしょう。私自身のことでなくとも、他人のことであっても、それは同じことです。自分に言えることは、他人であっても同じです。

もっとも、仕組みそのものを見直して、あるべき姿を追い求めながらやりましょう、複雑さを廃してすっきりするようにして行きましょうとなれば、私にもまだやれることはあると思うのですが、ほとんど期待出来ない状況です。

しかし、私は、自分が間違うことを肯定するためにこれを書いているのでしょうか。そうだとしたら、それもまたおかしな話です。けれど、それでも完璧さを相手にも自分にも求め続けることには、もう疲れました。

こう考えるようになったことは、経験として数えられるのでしょうか。そして、次に繋げていくにはどうしたら良いのか。視点は既に別のところへ移っているようです。それでも、今、開発の仕事をしている現実は現実としてあり続けるので、明日からの仕事が憂鬱であることに変わりはありません。自分のことは、自分がよくわかっています。開発の仕事を続けられなくなったと自分が感じているならば、それはきっと、事実です。自分にとっての事実です。

仕事、変えたいですね。変えたいから、模索します。