職場の飲み会、私には居場所がないし、意義も見いだせないことを再認識
こんにちは。
久しぶりに日中の投稿となります。
先日、職場で飲み会がありました。私はお酒が飲めないので(すぐに気分が悪くなりますし、そもそも美味しいと思えないです、私には)、気が進みませんでしたが、自分なりに気を使って出席することにしました。入社してまだそんなに時間が経っていないことも勘案しました。
けど、出席しても仕方ないことを再認識させられるだけの結果となりました。皆さん酔っ払っているから、話の内容に意味は大してないですし、どうしてそれで面白がれるのかな、と感じるような場面ばかりでした。酔えれば楽しいのかもしれないけど、私はシラフだし、ただ相槌を打つだけ。
それに、騒がしい中で大声で話をすることが、私にはストレスです。いつ自覚したのかは覚えていないのですが、ガヤガヤしたようなところで大声で話さねばならないような状況が苦手なのです。相手の声が聞き取りにくく、聞き取れないことにストレスを感じるような質ですから、実際に聞き取れないと、もうそれはそれは。悪いけど、イライラします。
そして、こんなことを書くくらいですから、自分から話せるようなことなんて何にもないというか、話したいと思っても話に食いつかれないというか、白けるというか。まあ、無理だと思いますね。でも、どちらが良いのか悪いのかではなく、あくまで志向の違い。
また、言い換えれば「私は相手にされない」のです。飲み会の席になると、何故か話の中心になったり、可愛がられる人っていますよね。これは僻みみたいなものなのでしょうけれど、そういう人と自分を勝手に比べてしまって、話の輪に入っていけない、せいぜい愛想笑い・相槌をする程度のことしかすることがない自分の状況が惨めにしか感じられなくなるのです。
更に、その会は二次会へと続いていったのですが、私は帰ることにしました。そうしたら、誰からも引き止めとかは一言もなかったです。引き止めがなかったことに気がついたのは、このブログを書き始める前だったのですが、いずれにしても、私に居場所はなかったのです。
場所を変えても、相手が変わっても、結局は昔と変わらず。大勢の集まりに、しかもお酒が絡むような席は、私が最も回避すべき状況のようです。だから、今後は最低限の義理を果たすだけに留めることとしました。最低限の義理とは、そうですね、歓送迎会のことになりますかね。それ以外はもう、出ないつもりです。
楽しくやれれば、それに越したことはないはずなのだけれど、こうして考え込む質なのですから、駄目なんでしょうね、きっと。自分だってその他大勢の中のひとりのはずなのに、どうしてこうもずれているのか。けど、もうこれは、こういう自分を受け入れるだけにします。無理なことは無理だと。そもそも、私は状況を変えたいのですよね。セミリタイア・自立を模索しているのだから、その目標に注力しましょう。